スタッフ紹介

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  • カワサキZ2

代表 田崎 隆一

代表 田崎 隆一大分県出身、昭和47年生まれの42歳
趣味もバイクと車です。メチャクチャ好きです。
ポリシーは「うだうだ言わずとにかく前に進む。」

8歳 母の田舎の鹿児島県長島町に帰省の際、ど田舎でスーパーカブに乗りバイク好きになる。
足もろくにとどかないが田舎の為、親の目を盗みノーヘルで勝手に乗り回す。けど怒られなかった。

18歳 兄のおさがりポンコツVF400Fに乗る。全開で140キロしか出なかった。ガソリンはどこに消えていたのかアクセルを開けて走るとリッター5キロしか走らなかった。
川の土手をこのバイクで走り砂地にはまって転倒して動けなくなるが、たまたま近くにいた親切な方が助けてくれて事なきを得る。このころから運はよかった。

大分工業高等学校電子科を、たまに他の科の生徒に呼び出されびびりつつなんとか卒業し横浜市戸塚区にある日立製作所に入社。
確か同期社員が200人ほどいてびっくりする。この頃からすでに専門だけは強く高卒の中で成績はトップだったらしい(先生が言っていた。小さな自慢か?)この時に初めて自分の1989年式2サイクルの250ccバイクを買い同期入社の友人とひたすら走り回る。今でも何でも話せる大切な友人。

2年弱で整備士になりたくなり退社。大分に帰る。2ヶ月プータローの間に限定解除する。

20歳 職業訓練校に入り3級整備士の資格を取る。
初めてビッグバイクGPZ900R(A-7)を買う。程度がすごく良いものを有名な全国チェーン展開する店で買ったが購入後に営業マンの言った「フルパワーですよ」は嘘で国内仕様と同じようにデチューンされていたりして不信感がつのる。私もあおかった。

その後自分でフルパワー仕様にして、これで通学するが、見た目ほどは走らず少しガックリする。チューニングも考えたが信用できる店がなく断念。マフラーだけ交換して乗る。今考えればこのときの判断は正しかった。デタラメな改造ほどバイクを駄目にするものはない。

21歳 大分日産モーターに就職。整備士になる。

入ってすぐに旧車(ハコスカをもっていた)の好きな同期入社の友人ができ、旧車に目覚るが古い車は買わず、GPZ900Rを売りZ1000MK2を買う。
このMK2は古い分だけ消耗していたがそこそこ程度はよかった。今考えれば最高のベース車輌といえる。(今買えば150万以上で一般の店で売られているぐらいの程度のもの)

それでも古いので購入してすぐに悪いとこが連発で出始め、走行中にアメリカ製のリヤショックが縮んだまま伸びなくなりシャコタンになったのには笑った。その他にもガソリンタンクに小さな穴が開きガソリンが漏れたり、メインのヒューズが切れたり、スプロケットを止めているボルトが折れたり、チェーンはスムーズに動かなくてガチャガチャいって変な振動がでるし、アイドリングはするが低速で力がなく6000rpmぐらいで回転が引っかかるし、とにかく次から次へと治さないといけないところがでてくる。

ここまで来て、もっときちんと整備したものを買わないと駄目だと気付く。

これらたくさんのトラブルのうちクレームで対処してくれたのはガソリンタンクの漏れだけ。しかもタンクを交換したせいで嫌いなカラーリングの色になってしまいかなりへこむ。

その後その店にはすぐに見切りをつけ、直接行ける範囲であちこちの店に行ってみたがたいしてよくならず、(まだインターネットという時代ではなかった)整備士だったこともありすべての作業を自分ですることを決意。
今考えれば買った店は「なんてひどい店だったんだ」と思います。その店は当然今はありませんし、今考えれば私が訪ねた店の人たちは間違いばかり言ってましたね。キャブレターが悪いのに「タペットクリアランスが悪い」とか。それらの店は残念ながら今もあります。

純正のキャブレターがどうにも調子悪いので思い切って回りは誰もつけてなかったJB物のCR29キャブレターを友人から購入。エンジンがへたっているせいもあり当然上手くセッティングができず、四苦八苦する。このCRキャブレターは6、7年使いました。
購入後半年間、ご近所にメチャクチャ迷惑かけつつ全ての休みはセッティングに費やし独学でセッティングできるようになる。このときの経験は今、とても役に立ってます。
この頃2級整備士になる。これは何の役にも立ちませんが。

大分日産モーターに入社して数年たち整備士の仕事にも自信がでてきたので、自分のMK2をすべてバラしてオーバーホール、レストアをする。フレームは色を剥離して、自分で軒先で色を塗り、アメリカ製のピストンを組み、内燃機屋にボーリングを頼み、バルブのすり合わせをして、外装の色を塗り、車体のベアリングを全部交換。この手の話回りでよく聞きませんか?自分でやった、という話。

その当時は当然整備士ですし、きちんとオーバーホール、レストアをしているつもりではありましたが、今考えればそれは

オーバーホール、レストアごっこです。

レベルが低いということです。そこそこ調子よく走るようになったので当時はレベルが低いことすら気づいていませんでした。今考えれば当然MK2の本来の能力を知っているとはとても言えません。
ただ「もっといい仕事を出来るところがどこかにあるのではないか」と心の中で思っていました。

当時の日産の整備士がレベルが低いのではなく(この当時いた私の会社が)きちんとした古いバイクを製作するのには専門的な知識と経験が必要で、普通の整備士ではそういうことは学べずZ1000MK2のような古いバイク本来の能力や美しさは取り戻せないということです。ましてはチューニングは100%無理。

この後ディーラーの整備士としての仕事を問題なくこなせるようになり、目標を見失いかけていた頃、少し体調を崩し入院しました。

今まですごく忙しかったのにいきなり暇になり色々考える時間が。そして思いついたのが、「ビトーR&Dで働こう」というとんでもない発送が。世界で活躍したGPメカニックの仕事と普通の整備士との違いはどういうものか知りたかったんです。そして今のバイクを触るのではなく1970年~1980年代の往年の名車たちを本気でチューニングしてレースしていたその技術を知りたいと思っていました。

そして大分日産モーター(当時名)円満退社。

24歳 そしてスーツを着て失礼にもアポなしでいきなり社長に挨拶に行き、さらに失礼にも「ここで良い仕事を覚えて九州で独立したい」とぶちまけ(今考えるととんでもないことを…若いということはすごい)それでも何とか雇っていただき運良くビトーR&Dに入社。

またまた運良く会社に二人しかいないメカニックのうちの1人となる。

今だから書けますが、当時すでにビトーR&Dにはいろんな部署があり、もし自分がメカニック以外の部署に配属されたらすぐに辞めるつもりでした。むちゃくちゃな考えです。
ビトーR&Dのような特殊な仕事をする会社でも、会社であることに違いはありませんから、自分の行きたい部署に配属されるとは限りません。ただ違う部署に配属されたら漠然と辞めようと考えていただけでその先のことは何も考えていませんでした。アホです。

当然最初からメカニックの仕事ではなく色々な作業をさせてテストされていたようです。

当時新しく建てた工場のエアーの配管製作(真夏で暑かった)社長が当時乗っていたロールスロイスシルバースパーの整備、会社のパワーショベルとフォークリフトの整備、(大概冬に調子悪くなり雪が降ってて寒かった)等々全く経験のない作業をいきなりさせてどれぐらい考えてなんとかするかを試されていたような気がします。

今考えればこれらのことは古いバイクを扱う上でとても大切です。古いバイクを触るときには毎回今まで経験したことのない作業を必ずする羽目になります。修理しにくいところにひびが入っていたり、駄目整備士がボッコボコに壊してあったり(かえって素人さんの方が慎重でそれほど壊していないことが割合的には多い)部品が欠品で製作する羽目になったり。それらのことは整備要領書には当たり前ですが対処法が書いておらず、聞ける先輩方も教えてくれる人もいない。そういうときにあきらめずいかに対処して結果を出せるか。そこを見ていたのだと思います。古いバイクを扱うにはレールの上を走る用にいつもどうりの対処法というものが通用しません。だから世の中調子の悪いバイクが多いのでしょう。

それらのテスト?を無事通過し晴れてクビにならずメカニック部署からも移動させられることもありませんでした。

そこで私のビトーR&D修行時代のメカニックとしての主な仕事は

  • 雑誌取材用、お客様試乗用のデモカーの製作と整備、そしてチューニング
  • お客様のバイクの製作、整備とチューニング
  • お客様のエンジンオーバーホール、チューニングエンジンの製作
  • 販売用リビルドコンプリートエンジン、チューニングエンジンの製作
  • JB製フロントフォークなどの会社のオリジナルチューニングパーツの製作
  • JBオリジナルスイングアームの製作、純正スイングアームの加工
  • 上手い表現が見つかりませんが、美藤社長がテストや作業するときのお手伝い(ど緊張!)
  • その当時はまだマグタンの出始めでしたから主に今はなきカンパニオーロ製マグホイールの塗装
  • フレームの補強作業や塗装、鉄系の溶接作業
  • オイルクーラーステーの製作やアルミの溶接作業
  • マフラーの部品製作。比較的簡単な部分のチタンの溶接作業
  • エンジンのサンドブラスト加工
  • バフがけ加工

細かいことはきりがないので書きませんが、とにかくいろんな勉強をさせてもらいました。

ただ営業の方がいるのと基本的に社長ご自身がお客様の対応をしていた為、お客様と喋る機会は1度もありませんでした。もちろんそのおかげで作業を覚えることに集中できたのですが。とにかく徹底的に現場主義で、机の上の能書きではなく、とにかく自分で考えて行動し、結果をだすという感じが私にはとてもあっていました。

ただ会社での食事中に、ただの一言も喋らず昼食を食べるあの雰囲気だけはきつかった。(これ本当)

27歳 まことに勝手ながら、自身のしたいことが明確に見えてきたのと(直接お客様と対話、相談して旧車バイクをオーダーメイド製作販売したい)技術的にも自分の思うレベルまで達したのでビトーR&Dを円満退社。今でも大変お世話になってます。

私が会社を辞める際、美藤社長にビトーR&Dで働いていたということ公開してこれから仕事をしていいかというようなニュアンスの質問しました。(緊張していたので、きちんとした一字一句の正確な言葉は覚えていないのです。)ただこのときの返事は明確に覚えており

「ええよ」

と言ってくれました。このときの喜びは忘れられません。
このときも私は自分で1つのことを決めており、もし社長からOKがもらえなければ私に能力がないということだから独立はせずバイクには全く関係のない別の仕事をしようと決めていました。だからこそ余計に緊張したのだと思います。ただしもともとプレッシャーに弱いタイプです。車で走行中後ろに着かれると気になる。

ビトーR&Dを辞めて独立された方は他にもいるようなのですが、きちんと独立を認められた方は他にはいないようです。
ですがそれはすでに過去のことですから、このページに書いてあるようなことは聞かれたり話の流れがそうならなければ自分から特別話すことなどないのですがこのホームページでは私のことを知っていただく為に書いています。
ビトーR&Dで働いていたことは、やはり私の誇りであり、デタラメなことをして美藤社長に恥をかかせるようなことはあってはならないと思っています。またそのことが完璧ではないにせよ、お客様に対してもきちんと仕事をすることにつながっていくと考えています。

27歳 タサキチューニング(旧車バイクリニューアル販売.com)を設立。
最初はエンジンのオーバーホール、チューニングがメイン業務。
その後徐々に旧車のリニューアル販売の仕事がメインになる。

37歳 その後Z750D1とGPZ900RとZ1000R2(試乗車になってます)を製作。
仕事の方もビトー流を私なりに自由にアレンジして仕事をしています。そのことは試乗車に乗れば明確にその違いを感じることが出来ます。(このことはバイカーズステーションの記事にも書かれています)
日々新しいことに挑戦しつつ現在進行形です。このホームページ内容もそのひとつです。

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スタッフ 増井 大輔

スタッフ 増井 大輔京都府長岡京市出身、1979年生まれの35歳
好きな言葉:成せば成る
料理が得意です。

私がこのバイク業界で働くきっかけはタサキチューニング(旧車バイクリニューアル販売.com)で働く以前に働いていた関西にあるK系のディーラーのバイク屋さんでした。
このバイク屋さんには23歳の時に入社したのですが、実はその前にもバイク屋さんに何社か連絡し、

「整備経験のない者を見習いから雇う店は今時ないよ」

と言われ半ばあきらめかけていました。その時には自分のバイクしか触ったことのない素人だったので職業訓練校に行こうかと調べていた時に、たまたま見つけた求人を見て面接をしてもらい無事にその関西のディーラーさんに就職することが出来ました。

働き始めると今まで知らなかったことばかりで、毎日が新鮮でやりがいがありました。会社には私と店長(社長)と2人しかいなかった為何でもする必要があったからだと思います。

始めの1年ぐらいは本当に素人だったので教えてもらうこともたくさんあり店長のことも少しは尊敬していたのですが、だんだん仕事が解るようになってくると、次第に不信感が募るようになってきました。

店長は「バイクが好きだからバイク屋をしてる」

と言ってましたが、私から見ると「バイク=お金」と見ているようにしか見えませんでした。

その例として、働いていたときにひどかったのは、修理依頼で入ってきたバイクでエアクリーナーボックスをはずしてエンジンをかけるとクランクケースとエアクリーナーボックスをつなぐ穴から「火事か?」と思うほど白煙を吐くバイクがあって調べてみると1気筒は圧縮がほとんどない状態でした。

ピストンとシリンダーのクリアランスがメーカー規定値から大きく外れた状態でした。そのことを修理に持ってきたお客さんに告げるとそのお客さんは後日新車を買っていかれました。そこまでは特に問題なかったのですが、問題はその後です。

ただ同然で下取ったそのバイクをどうするのかと思っていると、外装を磨き、そのまま壊れているエンジンの修理もせず値段をつけて店頭に並べ売り始めてしまいました。

その時私はどうしていいか解らず、さすがに売れない(お客さんにすすめられない)と思ったので、店長にこのバイクのことをどういう風に説明したらいいかたずねると、

「年式相応と言っておけ」と言われ、この時ぐらいから「この店で勉強し続ける意味がない」と思い出しました。後日それでもそのバイクは売れたのですが色々と問題になったのは言うまでもありません。

その後その店を辞めたのですが上で書いたようなこともあり、次に働く職場はきちんとしたところで、私自身も一人前になれるところに行きたいと思いました。つてもコネもない状態でよい職場が見つからないときに、たまたまタサキチューニングの以前のホームページを見つけました。

始めてそのホームページを見たときの印象は「見にくい」でしたが、何日かに分けて少しずつ読んでいくうちに、「この人は嘘は言ってない」と思いその時思っていたことをメールにして送りました。2、3日して直接電話をいただき、

「採用するつもりはないけど、話は聞いてあげられるからそれでもいいのなら会ってもいい」

と言ってもらい、数日後大分に行って社長と色々と話をしました。直接会って話をして、確信したのは、やはり「この人は嘘を言ってない」と言うことでした。

社長からは、「生半可な覚悟では絶対に無理だ」ということと、来てもたいして給料は払えないが、それでも本当にやるということなら試しに使ってもいいと言うことでした。

もともと給料はもらえなくても働くつもりだったので、お願いして使ってもらえることになりました。その日の最後に、試乗車のGPZ900Rに乗せてもらえることになりいきなり試乗しました。その時の感想は、

「ものすごいけど普通」

というのが正直な感想でした。普通と言うとあまり伝わらないかもしれませんが、本当に一言であらわすと普通なのです。

確かにアクセルを開けるとものすごい加速をします。ブ
レーキは指1本でその加速をとめることが出来ます。
曲がるときも始めて乗ったバイクにもかかわらず、思うように曲がっていきます。
のんびり、ゆっくり走ることも出来ます。
フルチュ-ンされたバイクなのですが純正の新車状態のGPZ900Rより普通に乗れ、なおかつとても刺激的なバイクでした。

その時以来タサキチューニング(旧車バイクリニューアル販売.com)で働き出してちょうど4年になりますが、4年たった今でもしょっちゅう怒鳴られたりしています。よく言われるのが

「うちは金額だけ見れば他よりも金額が高い。エンジンの作業だけに100万円払う人の気持ちを考えろ。うちを信用して高くても任せてもらえるんやから、その信用を裏切ることをしてはいけない」

と言うようなことです。その他のことでもよく注意されます。

一番厳しいのは作業場の中の整理整頓です。作業場内の全てのものが理にかなったようになっていないと厳しく注意されます。それは一番の基本の掃除、片付けが出来ないものがエンジンの作業、チューニングやオーバーホール、バイクの組み立てなどできるわけがないという考えからです。
本当にしょっちゅう怒られますが、それはお客さんのため、タサキチューニングのため、そして最終的には私のためなのでこれからも逃げ出すことはないと思います。

4年間働いていると色々驚くことがありましたが、一番強く印象に残っているのがまだ私がタサキチューニングに入りたての頃のことです。

常連のお客さんがこられているときに初来店のお客さんが、たまたま来たのですが社長が始めてきたお客さんに色々説明しなくても、その常連のお客さんが当社のことをものすごく褒めてくれていて、

「タサキチューニングに任せていたら、何も心配することないですよ」

みたいな事をずっと言ってました。この時私はこの時、「この人(常連のお客さん)はタサキチューニングのサクラか?」

と思ったのを今でも覚えています。

私はまだまだ駆け出しの新米ですが、ここに来る前にホームページを見て感じた、

「この人は嘘は言ってない」 と言うことが、あの時より中で働く今のほうが強く感じます。

一日でも早く地元の両親(私は長男なのに快く大分へ送り出してくれた)大分行きを応援してくれたバイク仲間や友人や親戚、そして社長に認めてもらえるように日々精進いたします。

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